昭和44年10月20日 朝の御理解
御神訓一、やれ痛やという心でありがたし 今みかげをという心になれよ。
一、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。
「やれ痛やという心でありがたし」と思えれる。そのありがたしと思うだけではない。今、霊験。ん、今こそみかげを頂いておる時であるという心になれよと。これは大変なことであり、又分かれば分かるほど素晴らしい事なんです。
ね、やれ痛やということは様々な難儀を感ずる時ということでしょう。ね。その難儀を感じる時に普通でいうなら、本当にもう死んだ方がましというような時もあろうとこう思う。ね、そういう例えば難儀を感ずる時です。ね、ありがたし、そういう時に有り難いという心が出る(時?)、そりゃ普通で思えない。
ね、誰だって苦しい時は苦しいんだと。なら泣くように苦しいと。ね、というようが実感でありますという。その、泣くように苦しい時に、有り難い心を出せなんていうたって出るもんか、とこういうのが普通の事なのでございます。
しかもそれだけではなし、「今みかげよという心になれよ」と。ね、今、今こそ霊験、これは信心を頂かなければ頂けない特別なおかげということですね。霊験ってね。
今、霊験をみかげとここでは歌っておられますね。「今みかげよという心になれよ」と。とても、とても、そのありがたしと思うだけでも難しいのに、それをね、例えば信心を、例えばしよって、こんな難儀な問題が起きて来るといったような場合なんかは、なおさらそれを霊験とは思えないのが普通。
けれどもそれを、そういう心になれよ、といわれるところにです、私共がどうでもおかげを受ける、その要諦というかね、そういうことが分からせてもらい、それを体験の上で一つ一つ体験させてもらって、なるほどやれ痛やという時ほど、神様の特別なお働きを頂いておる時なんだと実感出来れるおかげ。ね。
本当に苦しい時に、今こそ神様のおかげを頂いておる時だと実感出来れる、だけではない、神様相済みません。神様有り難うございます、とそのおかげに対してお礼を申させてもらえれる。そういう心になれよと。というためにですね、いわゆる「神の教えも真の道を、も知らぬ人の哀れさ」とこう仰るのでございますから、私自身そうですね。
こりゃ私共信心少しばっかり出来ておる私共が、信心のない方達を、又は信心をするおる人達を見ておると、はー本当に気の毒だなぁと思うんです。まぁ本当に私ならば、もうそれこそ神様に心から喜んでお礼を申し上げるだろうと思うことを、一生懸命不平不足の材料にしてるんですからね。
本当に私なら有り難いなぁ、と思うことをです、一つも有り難いとは思わずに、それをかえって困ったことだとしておるんですからね。なるほど、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」であります。
だけではない、それこそ、お金にも不自由しない、物にも不自由しない。健康にも恵まれておる。それこそ我が家の(はるをおうか?)出来ておるというような人達も、世の中には沢山あります。信心がなくても。
けれども、それはそういう例えば、幸せそうな、人達を見るにつけき、聞くにつけ。危ない、危ない。毎日一本橋を渡っておられるような気がする。後ろから、もう内劣りになっておられる人達の後ろから、祈のらにゃこうおられなきゃ、おられない。
先のことは知っておらん。「障子一重がままならぬ人の身」であってみれば、力のないことだけれども、信心が少し分からせて頂くと、あれで良いのであろうか、はーあれでは危ない危ないと、後ろからひやひやして見ておるようなものを感ずることが、感ずることがじゃない。感ずるんです。
ね、昨夜から、もう泊り込みで、今日のご大祭のための御用なさっておられる方達はもうほとんど、睡眠の時間もない方が多かった。もういうならば、もうへとへと。というように、その御用を頂いて、ね。だからそういう時に、こりゃまぁ、あー、私の実感ですけれども、そういうもうへとへとという時にです、神様有り難うございます。もう本当にへとへとになるまでお使い回しを頂いて有り難い。
こりゃまた、やれ痛や、今みかげを。またはみかげだけではない。ありがたしという心が何とはなしに、心の中に湧いてくるから、そのへとへとになるような御用のお使い回しを頂いたことが有り難いのじゃないでしょうかね。
私の、あー、北京から帰らせて頂きました、あの当時、丁度、あっちの土地で、まぁお手伝い、私は百姓ということはしたことがないから分からんのですけれども、むしろ邪魔になるくらいだったでしょうけれども。
この最後に「ちおだ?」さんというのが、私共の、お店の(とうしさん?)で見えておりました。いうなら、ここにずっとお参りになります奥様がね、えー、あの人んところへ、大変心安い中ですから、(とりえ?)の手伝いにまいりました。
もう本当にもう、よう辛抱しなさる。もう日が暮れたっちゃまだその、田から上がらんの。最後にはもう、あの、藁崩れなんか、もう( ? )ですね。薄暗い中で、あの、藁を束ねるわけですよね。こっちなんか要領が分からんもんですから、力ばっかり入れてから、もうそれこそなれない仕事をしてへとへとなんです。
ほれでその、あーた、(じゅうにた?)ですかね、をこうまるからかしておいてから、あのむすでっちゃ、(むすで?)はーってこう締めた、一生懸命締めた途端、ここを締めた途端に、あん体が疲れたもんですから、締めて(むすでが?)切れた途端に私の体が向こう側へぽとっと向こうへ、その藁の向こうに私がひっくりがえったんです。
もう(起きようが出来れも?)なとごと疲れておる。その時に有り難いなぁと涙がぼろぼろ流れたんです、私の実感ですこれは。ね、本当になれない仕事をさせてもろうて、本当にまぁなんという辛いことだなぁと。
では無くてですね、もう根限りの、例えば私としては、その力を、まぁ消耗して。もうへとへとになって、もうそれが自分達、向こうへ転んで行く、それを支える力すらないくらい向こうへ(くまんで?)から、もうちょっと起き上がられんぐらいにきつい。その中に、有り難いなぁーという心が湧いてくる。しかも涙がぼろぼろ流れるほどに有り難かった。
どういうことなんだろう。ね、いわゆるへとへとになるまでお使い回しを頂いておるということが有り難い。やれ痛や、やれきつやというてもいいでしょう。今みかげをよという心になれよと、それがね、そうなろうと思うてなるんじゃない。先生がきつい時に有り難いといよった。今みかげを思えと、仰るからそう思うたり、言うたりするのじゃない。それが自ずとそこから湧いてくるということ。
ね、そこに私共信心をさせて頂く者、いわゆる信心者でなからなければ(あかない?)しかも、その信心者がです、ね、真の道を分からせてもらい、真の教えを頂かせてもらっておる、そうした稽古をさせて頂いておる者でなからなければ分からん。
神の教えを頂けば頂くように、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」と。いわゆる真、神様の教えというものを日頃に頂いて、いわゆる本当な事を教えてもらっている。ね。真実のことを教えてもらっておる。教えによって。
しかも真の道も知らぬ人の、とこう仰る、その真の道というものを求め求めして、真の道とは真の道とはと、真の道を求め求めての信心生活の姿。ね、そういう信心をです、繰り返させて頂いておって初めて、私はここんところが、そういう難儀な問題、きつい問題に直面した時に、有り難いという心が湧くのじゃないでしょうか。
ね、そのね、そういうきつい時にというか、そういう苦しい時にです、今みかげをよ、と思わせてもらえ。ありがたしと思わせて頂くその心が、もうあなたは助かっておるということになるのじゃないでしょうか。
どんなに難儀な問題な時でも有り難いなぁと思えておるじゃから、もうあなたは極楽浄土です。ね、いうならそれこそ、橋の(おてなの?)上で合掌しておるような姿なんです。どんなにきつかろうが、痛かろうが、有り難いなぁと思わせて頂いておるということですから。もうその人の上には、ね、全ての事が有り難いということになって来るんです。
今みかげをという心に、ね、思おうというて思うのではなくて、それが自ずと思えれる。それには、ね、神の教えというものが、本気で頂いておらなければならない、同時に、真の道の知らぬ人の哀れさ。と仰る、そんなら、その真の道とは、いずくにある。その真の道とはどのような道をいうのであろうかと、真の道を辿り辿りてとか。ね、求め求めて辿っていくというような信心生活が、本気で出来ておらりゃ、信心の稽古が出来、そういう稽古が出来ていくうちに従ってです、「やれ痛や今みかげを」という心が起きてくるのじゃないでしょうか。
ね、教祖様が、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん。もうこれは大変なことなんですね。実は。ね。この方の道は喜びで開けた道。いわゆるどんな場合でも有り難いという喜びで受けられたという意味なんです。
これはもう道理ですもんね、どのような場合でも喜べるけん、喜びの種を一生懸命まきよるから喜びの芽が出てこんはずがない。喜びの花が咲かんはずはない。喜びの実が実のらんはずがないち。
これはもう、おー、何時の(よ?)になってでもです、不評の真理だと思いますね。ところが私共が喜べない。不平が出る。不足が出る。腹が立つ。いらいらする。ね、そこんところが段々段々、不平不足が喜びに変えられてきて。ね、ありがたし勿体なしという、全てのことがそういうありがたい。いわゆる喜びの心で受けられると。
そこで私共がですね、そういう病気の場合でもありがさしとか勿体無しという心になれることのために本気で、真の道を求めて行く。しかもそれを行の上に現していかなければならん。そこんところを合楽ではね、成り行きを大事にしなさいという事になっておると。
ね、真の信心とか、真の道とかというのは、ね、まず私が本気で真の人にならせて頂こうと努力する。ね、本当の人間にならせて頂こうと努力する。ね、そこで本当の人間とはという、一つの手本がいる。ね、どういう人を真の人というのであろうかという、その私共に手本がいるのです。ね、それを私共は教祖様に求めておるわけでございます。
ね、そこに教祖様の生きられ方というのが、そこに必ず問題になってこられる。教祖様の生きられ方。そのものが真の人の生き方であり、又真の道であるということになるのです。
ね、ここでもそこんところを、ね、成り行きを大事に、ね、天地が、いわゆる、天地自然の働きが、私一人の上に、様々な問題が、こりゃもう千差万別。一人ひとり。様々なものが私共に求められてくるわけです。
ね、それをどんなに、例えようそれが、恥ずかしい問題であろうが、きつい問題であろうが、いやな問題であろうがです、それを一応は合掌して受ける稽古を一生懸命にしていけれれるのである。成り行きを本当に大事にして行けというのである。ね。
どのような成り行き、そこから一遍に脱皮しようとか脱却しようというのではなくてです、ね、現在の私の上に現れておる問題。現在私があるところの難儀。その難儀の中にありながらです、その難儀を本気で大事にしようというのである。
ね、勿論、その難儀を大事にしようっていう、するということは、その難儀の中に神意、神愛を悟ろうというのである。ね、悟らせて頂くところに、それは難儀ではなく、神愛であるという事が分かってくる。ね、そこにありがたしということになって来る。
そういう稽古を、私は真の道を行っておる者の姿であると、ここでは説いております。ね、そういう稽古がですね、普段に(たいまん?)出来ていくということ。ね、そういう日々が、信心生活であらせて頂くというところからです、私はこれは、そう思おうと思わんでも、「やれ痛や今みかげという心でありがたし、今みかげをという心になれよ」というその心にです、自ずとなれるのじゃなかろうかと、私は思うております。
なろうと思うてなるのじゃない。そういう信心を身に付けていきよるから、何時の間にか、ね、もうそれこそへとへとに成る程にお使い回しを頂いて、あーいきつかったきつかったというだけじゃなくて。ね、本当にへとへとになるほどにお使い回しを頂いておるということが有り難い。私のような者をこのようにお使い回しを頂くことが勿体無い。
昨夜私、今こう入れ歯を取ってます。(歯茎?)がこう腫れましてね、その、もう朝から昨日は頭痛がするんです。今日はとうとう、そのあんまり腫れまして、こう少し腫れて、はじ腫れました、歯が入らん。ほれでとっているんですね。
これはもう肩のこりからだと、もう大変こっておりましたから、昨日、おー、娘の愛子と、それから繁雄さんとお二人で、えー、繁雄さんが肩を一生懸命もんで下さる。愛子が一緒懸命足をもんでから、もうそれこそ、もう本当に、何時間て、もんでもらったでしょう。
で私が、もんでもらいながら、私が繁雄さんに、その感謝の(日をひょう?)するわけです。ね、もう本当に繁雄さんもうあんたは、もう私にとってはもう切ることの出来ない存在になってしまわれたですよっち。
ん、もう本当にこんなに、例えばもう(批判にもなる事?)遠慮もなしに、それこそ眠もあろう、きつもあろうけれども、ね、あーま一時、まちっとそこにきようというて、わがままに、その例えば奉仕してもらえれるという人は他にはない。
繁雄さんが言われるんです。もうそういうことを実感を込められて言われるんです。親先生勿体ないっち。私がそういいましたら、そういわれるんです。ね、私は何も出来ん、もうこれ、これなっとん、こうしてさせて頂かなければ、何も出来ん私ですから、このように、この御用させて頂くということが勿体無いというてある。ね。
毎晩のことですから、もう私がつかれ、休んでしまいます。時には私がね、もう早うやめてもらおうと思うてから、寝たふりし時がある。ところが先生が寝たふり時には、絶対足がやおうなっとらんけん分かる。足がやおうなった時が、居眠りなさった時。
てこの頃私はあんまりきつかったもんですけん、もう先生がねむなさった、まぁもうよかちもいいなさるし、それから、まぁじっと手を離してからその、もう早く帰ろうとこう思うたです。そしたらね、★あの御心眼に、何時もお茶をなさいますから、その、お茶を、お茶碗を濯いでね、あの、濯いでから、それをこぼしにこぼして、最後の吹き上げを致します。そこの手前んところを御心眼に頂かれた。
ね、だからもうそれ以来ですね、それ以来まぁ本当にもう先生がお茶を召し上がった、最後のお茶碗を吹き終わるまでは、私はあの、おろそかな事をしちゃならんと思いましたというてから、その、肩もんで頂きながら、そういわれるんですよ。
はーはるほどな、そこに繁雄さんの信心があるなぁと私はまぁ思ったんですけれど。ね、本当にもうそれこそ、昼の疲れ、しかもう又、その、遅くなりますともう十二時頃までも、その人の体問題にせえんならんということは、もう大抵な者がもう、まぁ十遍二十編なら良いですけど、もう何年間続いておるんですからね。
ね、しかもそれを、実感を持って、もう私の体には、この、触れられる前にはまず御祈念です。たいがいの者がですね、もんでくれっっち、ハイっちいうて直ぐこう、私が(体にもむ、皆もみます?)。
けども繁雄さんは、まず御祈念をされる。ん、そこんところに、私は、繁雄さんの信心がまぁあると思うんですけれども、ね。そういう信心が私は繰り返されていくところにです、ね、おかげ。どんな場合でもそう思える。ね。
先日の、十日の、あー、(十七?)、えー、十八日ですね、えー、十八日の月次祭の晩にここにお参りしていこうとして自分が急いでおられる時に、お孫さんが、気のきかせて頂いたんですけども、おつゆ、おつゆのたぎったとそこに下ろしてきたち。それがこう、あの(しゃくじ?)がそれにつけてあったそうですたい。
それを子供が、あの、小さいお孫さんがですね、まだ要約歩い、歩いてる、もうお孫さんが、わざわざ大祭だからというて、あの北九州の方からやってきております。それが人のはいとるパンツに引っかかったでなもんじゃけんあなた、パンツん中に(しゃくじん?)が入ったげなもんじゃけん、それをこうやっていったけんあんた、鍋がおしりにばっとかかった。
それこそ、(して自分がなら?)手が悪いもん、その時3人も、その女達が、その裏の方へいって、さぁちゅうて間に合わじゃったち。もうそれこそもう生神金光大神様ですかね、でやっとその、思いでズボンをその、あの脱がせてですね。そして、お神酒を持ってこいっち言うてから、お神酒を吹かれて、それから御神米が三体。三体張らなきゃならんほどにここがこう腫れあがってしまったんですね、水ぶくれてしまって。
そこを、お神酒をはっ、お神酒をぬって、あの、御神米を張らせて、その又御神米の上からです、ね、お神酒をふって包帯(わられた?)とこういう。そりゃもう嫁御がたまがりましてね、その息子の嫁御が。やよさぁ、お医者さんに連れていきなさらにゃ。というから、もうね、私はもう(黙って?)あの、神様にお願いさせて頂いておった。
だから「としこ」ちゅうのがその、子供の、母親、娘さんですが。「としこ」どうするかって。あの今から月次祭にお参りするから、医者に行くかっちいうたら、いやもうお月次祭にお参りするというふうに。それでなからにゃと。というてですね、その、そのそういう例えば、とっさの難儀な場合ですね、そのことを有り難いと受けておられるです。
これが大祭、お前が、あー、あっち本当にこちらにお大祭にお参りしげ来てからこげな火傷させたてんなんてん、ん、(おうよう?)するなて。もうこれがどういうお前がお参りでもしとらんなら、どういう大難におうておったやら分からんぞと。
おかげを頂いた、なら直ぐお参りしようというてお参りをして来た。ところがもうそれこそ火のつくように泣いておったのが、ぴったり泣き止んでですね、もう驚いてしまった事はあの月次祭の晩に私は、裏の方へいっとったら、あの長い廊下を、子供どんどん走ってきよりますもん。後ろから母親が、その一生懸命追いかけてきよるとじゃん。それが何とその、お孫さんと、娘さんでしたですか。
泣くだんじゃないです。ね、昨日はどげなふうでしたかっち。その話てもらいながら、そして、そのあー、もうそれこそ痛かのいの字も言わん。ただお神酒を上からぷーっと吹く時だけ泣くそうです。けれども吹いたら、後はもう、それこそ、(痛いならくても?)どうかこまごつを言うたり、泣いたりせんならんとに、(神様?)しかしこれだけにはいくら私げん、強情な嫁御でも分かるじゃろう。信心をしない娘、嫁御がおる。嫁御がおるちゅうか、息子の嫁御です。
直ぐ、はー、医者にいかんなさにゃと。いうたその、(ふう?)がこれには、しかし、「けいこ」さんていうあの、「けいこ」さんも神様のありがたさが分かったじゃろうというて、昨日いうておられます。
ね、そういうとっさの場合でもです、ね、「やれ痛や今みかげを」というその、言葉ではそういうようなばってん、そういうものがあるわけ。ね、ありがたし勿体無しというものが、そういう一つの難儀の、直面した時に、中にある。そういうようなものがです、何時の間に繁雄さんの心の中に育って来たか。いや、まぁだ時たまにしか参ってこない、その娘にまでそのことが、伝わっておったかという事なんです。
いえ、お医者にはいかん、ならお祭りにお参りしようて、もう途端に子供が泣き止んだ。ね、だからお前どんごたるとじゃけん、(おれいが?)をたっぷり言うてから、まぁ抱いておられたけれども、もうその、そういう心配もいらんほどしに、もう昨日なんかはもうとにかく、痛いも痒いもないのじゃろう。あのように楽しそうに、いわばお家で遊んどるとこういうのですよ。
ね、ほりゃもう水ぶくれしたところが、もう真っ黒に腫れあがってからしとるところへ、もう御神米を貼らして頂いたきりで、おかげを受けておる。これにはいかに信心の無いもんでもやはり、下をまくほどの驚きではなかろうかと思うですね。
ね、そういう例えば信心がです、なら「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」とここの、哀れさではなくて、神の教えを頂き、真の道を本気で、せい、日頃稽古しておられる。例えばなら、私の対する御用の、御用のあり方、頂き方といったようなものでもですたい。あー今夜も又もまにゃんといったようなものではなくてです。勿体無いという、そのそういう私は真の道を辿らせて頂いておられるところからです、とっさの時そのような場合に有り難いというものが生まれてくるのじゃないでしょうか。
さぁどうするか。さぁ医者に連れていけ。もう月次祭はもう、よかよか。医者の方へ先行けって言うている信者も、信心もあるかもしれませんよ。言い訳はつくもん。はーあんた出かけにこげんじゃったですけん、お祭りはご無礼しましたでよかでしょう。けれども、そげな事が惨めもない。
ね、けれども、自分の子じゃなかけん、一遍は娘さんにいうておられる。嫁がさぁ医者に行けという、「としこ」お前はどうするかと。ね。お祭りの方におかげ頂こうとこういう。そこにです、ね、いた、痛まねばならん、ひらひらしなければならん、泣かなきゃならんはずのそれが泣きもせん、痛みもせんのだろう。生き生きと走って歩いておるという事。そういうおかげになって来る。ね。
私はそういうところに、そのり、その臨機応変ですね、何時の場合でもですたい。そういう心境が段々育ってくる。そこからです、信心させて頂いておる者の値打ちをそこに感じるのでございます。
どうでしょうかね、はー医者どんにつれていっとってから、毎日毎日あの、白か薬をぬられますがね。して、毎日連れて行ってつけかえにゃん。あー、もう大変なことです。勿論、ひら、あのひらひらしたり、その色んな痛みはありましょう。けどもね、いわゆるここにはっきり、ありがたし今みかげをということを霊験と書いておられますですね。霊験。
これは信心の無い者でも、ほーっち言うてたまがるじゃろうというような霊験がそこに現れておるわけですね。「やれ痛やという心で今、ありがたし、今みかげをという心になれよ」。「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」と。
私共はその教えを頂き、真の道を辿らせて頂いて、そして、何時の間にか育っていっておる。どんなにへとへとになるように御用にお使い回しを頂いても、それこそへとへとになるほどにお使い回しを頂いてありがたしと、お礼を申し上げたら涙がぽろぽろこぼれるくらいに、ありがたいようなおかげを頂けたら、もうそこにはあなたの助かっておる姿があるだけだという事になるのじゃないでしょうかね。どうぞ。
梶原 佳行